陸路国境とは
ヨーロッパ(特に西欧)では、道さえあれば、国境などほとんど意識することもなく、また国境線で車を停めることもなく、次々と国を越えて自由に走って行けます。しかし、同じように陸続きの国々が並んでいても、アジアでは国境越えの事情はまったく異なります。
道は続いていても、アジア地域の国境には出口と入口の両方の国のイミグレーション(出入国管理)とカスタム(税関)が、国家の威厳を示すかのように立ちはだかっており、各国のルールに則り、各政府の許可を得ない限り、自分の車やバイクで国境を出入りすることはできません。そして多くの場合、それはかなりの困難を伴います。まさに国家の「壁」を強く感じる瞬間なのです。
東南アジア地域の中でも、大陸部に属するラオス、カンボジア、ベトナム、ミャンマーは、社会主義体制または軍事独裁体制を現在もしくはつい最近まで敷いてきた国々であり、いずれの国も国境については閉鎖的で国家の壁を高く設定してきた歴史があります。近年、自由化が進んでいるとはいえ、民主主義・自由主義の国とは異なるこれらの国々に、タイでレンタルしたバイクを使って入国し、周遊することが、はたしてできるのだろうか?また、国境貿易や人の移動が盛んになったといわれるこれら国々の陸路国境は、実際にはどのような状態なのだろうか? それらを探るためのチャレンジが今回の東南アジア4200kmの旅でした(ルートは地図参照)。
国境越えの結果を先に言うと、7ヵ所で挑戦して「4勝3敗」(3ヵ所で拒否される)の戦績でした。
バンコクでバイクをレンタルして出発
乗り物としては、Kawasaki製の大型バイク(写真上)を使いました。ヨーロッパやオーストラリアのライダーにバイクをレンタルしているバンコクのショップで2週間レンタルしたものです。私自身、海外でのバイクツーリング歴は長く、タイ、ラオス、カンボジアも10年ほど前に国ごとには走ったことがあります。ただし、1台のバイクで国境を越えながらこれらの国を続けて回るのは初めてです。
まず出発地点は、タイの首都バンコクです。国内政治の分裂から、ここ数年街頭でのデモや集会が続いて都市機能が一部麻痺する事態も起こっていたここバンコクですが、今年(2014年)5月にクーデターによって軍部が政権を掌握したことで、むしろ平静を取り戻していました。中心部には高層ビルが林立し、鉄道や高速道路の整備も進んで、近代的な装いをまとう大都市となったバンコクですが、混雑する道路上では、並みいる車やバイク群が先を争ってレースまがいのバトルを繰り広げるアグレッシブな交通状況が展開しています。
そんな喧噪の首都を離れ、まずは北500kmの地点にあるミャンマー国境に向かいました。当初の計画では、タイからミャンマーに入って、ミャンマー国内を一周することを目指していたからです。
Myanmar
越えられなかったミャンマー国境
しかし、最初に挑んだこの国境(メーソット/ミャワディ間)で、厚い壁に跳ね返されました。長年、鎖国政策をとってきたミャンマーでは、2011年以来、民主化・自由化が進んで大きな変化の途上にありますが、外国人が車輌で乗り入れることにはまだ厳格な規定がありました。インターネット上でもこの国への入国情報はほとんどなく、どの国のライダーもまだ自由に走った実績がない中でのチャレンジだったのですが、入国ゲートのオフィスで1時間以上も粘って交渉したものの、外国車輌の乗り入れと国内の自由走行は規定によって不可(可能にするためには膨大な費用と時間が必要)、との結論を受け入れざるを得ませんでした。
やむなくミャンマーを走ることは諦め、代わりにタイ側にバイクを置き、1日の入国許可をもらって歩いて国境を渡り、日帰りの国境の町ミャワディを見ていくことにしました。
カレン族難民キャンプから西へ
ミャンマーに関しては、入れないこともあり得ると想定していたので、すぐにプラン2に切り替えて西に向かい、ラオス、カンボジア、ベトナムを回ることにしました(ベトナムは時間が足らずに結局断念)。同じような出入国の不確実性と不安を抱えながらも、心機一転の再出発です。
その前に、この国境から60kmほどのところにあるミャンマーから逃れてきたカレン族の難民キャンプを見に行きました。1980年代にミャンマーの軍事政権に対抗する反政府活動を行っていたために弾圧を受け、隣国タイに十数万人のカレン族が難民として逃れたのですが、その中の4万人ほどが住む最大のメーラ難民キャンプです。ちなみに、日本は、2010年から毎年約30名の難民をこのメーラキャンプから第三国定住者として試験的に受け入れるようになりました。
メーラ難民キャンプ。霧が漂う山間部に1kmほどにわたって草葺き屋根の住居が立ち並ぶ
その後、タイ中北部の平野と山間部を西へまっすぐ進み、古都スコタイや東北部(イサーン)の中心都市コーンケーンを経て、ラオス国境の町ノンカイを目指しました。
タイの道路状況は非常に良く、快調に飛ばせる。道ばたには地域性を反映した様々な露店が並ぶ。ここでは椰子の実ジュースで一休み
洪水や干ばつが多く、タイの中でも貧しい地域イサーンの農村。途中のスコータイは世界遺産の町
タイからラオスへの国境越え
メコン川に架かる「タイ・ラオス友好橋」でラオスの首都ビエンチャンと結ばれるノンカイの国境は、橋の両岸にそれぞれの国境ゲートがあります。まずタイ側のイミグレーションで出国(departure)の手続きを済ませ(ここではバイクでの出国もOKとのことだった)、パスポートにタイ出国のスタンプを押してもらったあと、もうひとつの出国窓口であるカスタム(custom)でバイク持ち出しの申請をしました。
しかし・・・ここでは、自分所有(登録証の名義が自分となっている)のバイクでは可能だが、レンタルバイクではタイを出国できないと、いきなり出国を拒否されてしまいました。より責任ある地位の係官と話したいと言って、入れ替わり現れる3人のオフィサーと交渉したものの、いずれも組織としてはルールに従うしかない、との回答でした。
タイのノンカイの国境にある出入りの多い大規模な国境ゲート
またしても国境を越えられない! しかも、タイの規定でレンタルバイクでの出国はいっさい認めないというのでは、タイ以外の国へはまったく出られないではないか・・・。一瞬、絶望感がよぎりましたが、でも待てよ・・・そこは東南アジア、何か手があるはずだ、と思い返し、すでに押された「Departure」のスタンプの上に「Cancel」のスタンプを押してもらった後、130km離れたずっと小さなブンカンの国境に向かうことにしました。小さな国境であれば融通をきかせてもらえるかもしれない、と考えたからです。
ブンカンで一泊して、翌朝、国境ゲートに向かいました。ここには橋は架かっておらず、メコン越えにはフェリー(というよりトラック数台が乗れる「はしけ」)が使が使われています。案の定、小さな国境オフィスにはイミグレーションとカスタムともに1人ずつの係官がいるだけでした。事情を伝えるとイミグレーションの係官は、私の希望を聞き入れて親身になって方策を考えてくれました。そして、ラオス側がバイクでの入国を認めるのであれば、タイからの出国は認めてもいい、と言ってくれたのです。
彼は問い合わせの電話を何本かかけ、最後に話し中の電話を私に渡してくれました。事情もわからずそれに出ると、聞こえてきたのは日本語でした。あとで聞いたのですが、ラオスのダム建設に携わる日本の建設会社のハラダさんという駐在員の方で、ブンカンの対岸のラオスの町パクサンの事務所におれら、タイ、ラオスでの滞在も長くて事情にたいへんお詳しい方でした。以前から繋がりのあるタイの係官から、バイクでの日本人旅行者の受け入れをラオス側が認めるかどうか問い合わせを受けたということでした。ハラダさんがラオス側の受け入れの状況についてすぐに調べてくださり、しばらくして、「ラオスの入管は受け入れ可能」との回答を得たことを、タイの係官に伝えてくれました。
この情報を境に、タイ側は出国の書類作成に取りかかってくれ、2時間ほどはかかったものの、タイの係官(エイさん)とハラダさんのご協力によって(心より感謝です)、この国境ゲートからラオスに渡れることになったのです。ノンカイの国境で何度も言われた「レンタルバイクだから出国不可」は、ここではまったく問題になりませんでした。対岸に渡っても、ラオス側の対応は協力的で、すんなりとバイクともども入国を認められました(手続きの途中、12時に窓口が閉められ、昼休み1時間待たされたが)。
国境越えに関しても、場合によっては「法治よりも人治の要素が強い」という東南アジアの一般的特徴を踏まえる必要があるようです。これまでの「1勝2敗」の国境越えの経験から学んだこと(例えば、大きな国境より小さな国境を狙え)は、その後の国境チャレンジに大いに役立ちました。
ラオス縦断
ラオスを走り始めました。まず、通行帯が逆になり、日本と逆の右側通行に変わります。また、タイの快適な道路環境とは異なり、舗装はされていても路面が悪くてバンピー、中央分離線がほとんどない(対向車が反対車線に平気で入ってくる)、道路標示が圧倒的に少ないなど、バイク乗りにとっては厳しい条件が増えました。この国はアジアの中でも後発発展途上国で、インフラ整備は一見して遅れていますが、それでもメコン川に沿って延びる幹線道路(国道13号線)を走っている限り、比較的スムーズに走れました。
頻繁に路上に登場する牛は最大の障害物。木材伐採が進むラオスでは運搬用のトラックも多い
ラオスに入ってからメコン川に沿って最南端のカンボジア国境まで750kmほど南下したところに、シーパンドーン(4000の島)と呼ばれる地域があります。この地域にはメコン川の川中に多くの島があるとともに、川に段差ができていて、そこが幅数百メートルにもわたる滝になっているのです。観光名所としても開発されつつありますが、この滝がなかなかすごい!それまで見てきたメコン川は、雨期の水を満々とたたえ、かなり大きな船でも楽々航行できるほどの川幅と水深を有し、ゆっくり悠然と流れていただけに、それがここで大きくブレイクし、茶色く激しくうねる大滝と化している姿は、見ている者に畏怖の念を抱かせるすごさがあります。ここの段差によって川と海を繋ぐ船の行き来が分断され、メコン川を海に繋がる航路として使うことができないのです。
ラオスからカンボジア出国の挑戦
この滝を過ぎて10kmほどさらに南に行くとラオス・カンボジア国境がありました。この国境を出てカンボジアに入り、さらにカンボジアを縦断してタイにもどる周遊の旅を計画していました。しかも、カンボジアは入国に関しておおらかなはずだから、たぶん可能だろうとなんとなく(確たる根拠はないままに)考えていました。ところが、現実はそう甘くなく、またしても国境の高い壁に入国を阻まれることになったのです。
ラオス側の係官は、カンボジアが受け入れればバイクでの出国を認めるから、カンボジアのゲートまで行って聞いてこいと言います。そこで、300mほど先のゲートにあるオフィスまで歩いて行って事情を話し、バイクでの入国を希望している旨を伝えました。ラオス側のイミグレーションにいたのは、なんと2人の大学生のインターンだけで、上司はプノンペンに出張中とのことでした。
2人のうちの1人は英語が堪能でこちらの状況と申し出を理解してくれたのですが、自分たちだけでは処理できず、携帯電話でプノンペンの上司の指示を仰いでいました。ハラハラの瞬間です。そして、その結果は・・・タイのバイクでは3カ国目となるカンボジアへの入国は認められない、許可を取るためにはプノンペンの本省に事前に申請する必要がある、というものでした。
窓口の2人(写真)は両方とも好青年で、個人的には私にずいぶん同情してくれたのですが、インターンの身ですから融通を効かすだけの権限があるはずもなく、上司からの指示を繰り返すだけでした。「取り付く島がない」という状態で、交渉の余地がありそうには見えません。やむなく引き下がり、ここで出られなかったらそのあとどうしようか、と途方にくれながら、ラオス側に戻りました。
ラオス側で待っていた係官たちは、ひとしきり私の説明を聞いていましたが、その後、英語が上手で外国人慣れした1人の係官が、次のようなアドバイスを耳打ちしてくれました。カンボジア側へは、外国人が車輌のままでの入国を許されるケースがたまにある。おそらく、カネを払らって特別の処置を仰いでいるのだろうから、カネを支払う用意があるなら責任者と触接話して交渉してみたらどうか、と。かつ、歩くのがたいへんだろうから、バイクで先方まで話しに行っていいよ、とも。
その言葉に押されて、もう一度カンボジアの門を叩くことにしました。今度はバイクで乗り付けると、2人のインターン君たちは、えっ、という顔でビックリです。どうしてもカンボジアに入りたいから、プノンペンの君たちのボスと電話で話をさせてくれと頼みました。そのリクエストはかなえてもらえ、彼らの携帯電話でボスと交渉することができました。ボスの話はさっきの話の繰り返しから始まりました。こちらの強い気持ちを直接伝えても、彼の主張は微動だにしません。
そこで、次の手です。特別な配慮をしてくれたら幾らかのカネを支払う用意はある、と遠回しに伝えてみました。意図は伝わったはずですが、それでも同じことを繰り返すので、よりはっきりとこちらの意志を伝えました。それに対する答えは、以外にも毅然としたものでした。「いくらカネを払ってもルールはルールだ。コラプションでルールを変えられると思わないで欲しい」。時間を割いてくれた礼を言って、電話を切るしかありませんでした。
電話でなく面と向かって直接話していたらどうなっていただろうか、2人のインターン君たちを挟んでいなかったらどうなっていたのか・・・いろいろと考えどころはありますが、とにかく、この時の展開はこのようなものでした。インターン君たちとの別れ際に、「君たちのボスはりっぱな人だね。コラプションでルールは変えられないと言っていたよ」とあえて伝えると、それを聞いた彼らの顔が、心なしか得意げな表情に変わったように見えました。
ラオス出国で一悶着
カンボジアへの国境越えをあきらめ、いったんタイへ出てから、改めて小さな国境を狙ってカンボジアへの出国に再トライする作戦を立てました。まずは、南へ150km戻ったパクセーで一泊し、そこから40kmほど西へあるラオス・タイ国境からタイに戻るのです。南部の中心都市パクセーには、外国からの直接投資がいま盛んに流入して工場やホテルなどが急ピッチで増えているようで、街は活気にあふれていました。
イミグレーションの窓口で、いつものようにパスポートを出して出国のスタンプを押してもらおうとしたのですが、係官が私のパスポートを何度めくり返しても、ラオス入国時の入国スタンプがみつかりません。タイをフェリーで出国した時の出国スタンプは確かに押してあるのに、その直後に対岸で入国手続きをした時のスタンプがないのです。これでは、パスポート上はラオスに不法入国して数日間バイクで走り回っていたということになってしまいます。もちろん、これは先方のミスなのですが、とりあえずの立場としては、かなりヤバイことに。・・・
窓口から別室に移され、英語のできる30代半ばのオフィサーともう1人の係官による事情聴取が始まりました。入国スタンプなしの不法入国は、100〜500米ドルの罰金(fine)だ、とまず一撃を浴びせられました。もちろん、こちらもパクサンの入国ゲートでの入念な入国手続きを経て入ったことを説明し、スタンプ以外の書類はすべてそのゲートで作成されたものが揃っていることを示しました。つまり、そこの係官がスタンプを押し忘れたのだと。そして、「It's not my fault, but yours」と強く抗議し、それを明らかにすべくパクサンのオフィスに問い合わせて確認してくれ、と求めました。
その前に事情を詳しく聞きたいということで、入国時からその時までのルートや泊まったホテルなどを詳しく聞き出し、それをラオ語の調書に細かく記入する作業を1時間ほどかけて行ったのです。彼らの態度は概して紳士的かつ理性的で、淡々とした事情聴取だったので、一時は私も、彼らが私の立場を理解してくれ、調書作成後には無罪放免で送り出してくれるのではないかと考えて協力しました。そころが、調書を作成し終わると内容をすべて英語に訳して読み返し、さらに、このケースは規定に照らして罰金100米ドルに相当するのでそれを支払い、調書の最後にサインして拇印を押すよう促すではありませんか。
ちょっと待ってくれと、入国したオフィスへ電話で確認するよう迫ると、彼は上司の許可を得て電話してくると部屋を出て行きました。いやな予感がしました。本当に彼らが問い合わせをして真実を明らかにしようとするのか、電話したとして先方が自らの非を認めるのか・・・。しばらくして戻ってきたオフィサーは、案の定、先方に問い合わせたが、そのような人物の入国の事実は確認できないとの返答だったと言うのです。
私の話や他の書類から、先方の係官がミスを犯したとは思わないかと逆に迫りました。すると彼は、仮にミスだったとしても、パスポートのスタンプがないまま国内を旅したのは事実であり、確認しなかった責任はあなたにあるというのです。正常な手続きで手元に戻されたパスポートにスタンプが本当に押してあるかどうか、係官を疑ってチェックするなどということは普通しないだろう、といっても、もちろん受け入れられません。
万事休すという感じでした。無論、時間をかけるつもりならとことんやり合う手もあるでしょうが、日程が詰まっている中でその日の出国を前提にするなら、妥協するしかないところまで追い込まれてしまいました。無念にも、罰金の支払いに応じました。このケースで100ドルの罰金が高いかどうかは考え方次第ですが、こうして小さいながらも冤罪の被害者になったわけです。彼らの作成した綿密な調書や罰金支払いの領収書が渡されたことなどを考えると、賄賂を無理強いされたわけではないと思いますし(最終的に罰金の行方がどこかは別として)、もともと誰かが悪意をもって仕掛けたことでもないでしょう。しかし、これが現実なのです。
私のパスポートには、ラオス入国のスタンプがないまま、ラオス出国のスタンプが押されました。1時間以上私の相手をしたオフィサーは、私が罰金の支払いに同意するとほっとした表情を見せていました。彼にとっても、めったにない緊張する業務だったのかもしれません。そのあとは打ち解けて、それぞれの事や旅のことをしばし話し、最後は笑顔と握手で分かれました。
タイに戻ってきました。国境線を越えただけで、辺りの雰囲気や道路や標識ががらりと変わりました。一瞬にして、時間が20年ほど先へタイムスリップしたような、そんな感覚にとらわれました。
タイの入国ゲート周辺。ちょっと乗せてくれとバイクに跨がる陽気なタイ税関の係官
(文・写真:金子芳樹)
(旅の後半のタイからカンボジアへの国境越えとカンボジア国内の状況については、次回(Part2)に続く)
*今回の東南アジア・国境越えツーリングについては、9月29日(月)のゼミの授業時間に報告会を行います。