金子芳樹 [2007~]

東南アジアの国境を越えて—バイクで走ったタイ・ラオス・カンボジア(Part1)

今年の夏は、東南アジアのタイ・ラオス・カンボジア3国をバイクで旅してきました。テーマは、バイクで走りながら国境(Border)をいかに越えるかです。9月18日に帰国したばかりでまだ整理できていませんが、ここではとりあえず写真を中心にレポートします(写真はクリックで拡大します)
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陸路国境とは

ヨーロッパ(特に西欧)では、道さえあれば、国境などほとんど意識することもなく、また国境線で車を停めることもなく、次々と国を越えて自由に走って行けます。しかし、同じように陸続きの国々が並んでいても、アジアでは国境越えの事情はまったく異なります。

道は続いていても、アジア地域の国境には出口と入口の両方の国のイミグレーション(出入国管理)とカスタム(税関)が、国家の威厳を示すかのように立ちはだかっており、各国のルールに則り、各政府の許可を得ない限り、自分の車やバイクで国境を出入りすることはできません。そして多くの場合、それはかなりの困難を伴います。まさに国家の「壁」を強く感じる瞬間なのです。
                                                                                  
コースマップ

東南アジア地域の中でも、大陸部に属するラオス、カンボジア、ベトナム、ミャンマーは、社会主義体制または軍事独裁体制を現在もしくはつい最近まで敷いてきた国々であり、いずれの国も国境については閉鎖的で国家の壁を高く設定してきた歴史があります。近年、自由化が進んでいるとはいえ、民主主義・自由主義の国とは異なるこれらの国々に、タイでレンタルしたバイクを使って入国し、周遊することが、はたしてできるのだろうか?また、国境貿易や人の移動が盛んになったといわれるこれら国々の陸路国境は、実際にはどのような状態なのだろうか? それらを探るためのチャレンジが今回の東南アジア4200kmの旅でした(ルートは地図参照)。

国境越えの結果を先に言うと、7ヵ所で挑戦して「4勝3敗」(3ヵ所で拒否される)の戦績でした。


Thai Flag
 Thailand

バンコクでバイクをレンタルして出発


乗り物としては、Kawasaki製の大型バイク(写真上)を使いました。ヨーロッパやオーストラリアのライダーにバイクをレンタルしているバンコクのショップで2週間レンタルしたものです。私自身、海外でのバイクツーリング歴は長く、タイ、ラオス、カンボジアも10年ほど前に国ごとには走ったことがあります。ただし、1台のバイクで国境を越えながらこれらの国を続けて回るのは初めてです。

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まず出発地点は、タイの首都バンコクです。国内政治の分裂から、ここ数年街頭でのデモや集会が続いて都市機能が一部麻痺する事態も起こっていたここバンコクですが、今年(2014年)5月にクーデターによって軍部が政権を掌握したことで、むしろ平静を取り戻していました。中心部には高層ビルが林立し、鉄道や高速道路の整備も進んで、近代的な装いをまとう大都市となったバンコクですが、混雑する道路上では、並みいる車やバイク群が先を争ってレースまがいのバトルを繰り広げるアグレッシブな交通状況が展開しています。

そんな喧噪の首都を離れ、まずは北500kmの地点にあるミャンマー国境に向かいました。当初の計画では、タイからミャンマーに入って、ミャンマー国内を一周することを目指していたからです。


Myanmar Flag
     Myanmar

越えられなかったミャンマー国境

しかし、最初に挑んだこの国境(メーソット/ミャワディ間)で、厚い壁に跳ね返されました。長年、鎖国政策をとってきたミャンマーでは、2011年以来、民主化・自由化が進んで大きな変化の途上にありますが、外国人が車輌で乗り入れることにはまだ厳格な規定がありました。インターネット上でもこの国への入国情報はほとんどなく、どの国のライダーもまだ自由に走った実績がない中でのチャレンジだったのですが、入国ゲートのオフィスで1時間以上も粘って交渉したものの、外国車輌の乗り入れと国内の自由走行は規定によって不可(可能にするためには膨大な費用と時間が必要)、との結論を受け入れざるを得ませんでした。

やむなくミャンマーを走ることは諦め、代わりにタイ側にバイクを置き、1日の入国許可をもらって歩いて国境を渡り、日帰りの国境の町ミャワディを見ていくことにしました。

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国境の橋「Thailand-Myanmar Friendship Bridge」とミャンマー側のイミグレーション

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それまで英語の通訳として親身になって対応してくれた係官助手のウィンさんがガイド役

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途中で小学校に入って見学。昼休みに国旗を囲んでみんなで国家を唱うところ

 

Thai Flag
 Thailand

カレン族難民キャンプから西へ

ミャンマーに関しては、入れないこともあり得ると想定していたので、すぐにプラン2に切り替えて西に向かい、ラオス、カンボジア、ベトナムを回ることにしました(ベトナムは時間が足らずに結局断念)。同じような出入国の不確実性と不安を抱えながらも、心機一転の再出発です。

その前に、この国境から60kmほどのところにあるミャンマーから逃れてきたカレン族の難民キャンプを見に行きました。1980年代にミャンマーの軍事政権に対抗する反政府活動を行っていたために弾圧を受け、隣国タイに十数万人のカレン族が難民として逃れたのですが、その中の4万人ほどが住む最大のメーラ難民キャンプです。ちなみに、日本は、2010年から毎年約30名の難民をこのメーラキャンプから第三国定住者として試験的に受け入れるようになりました。

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メーラ難民キャンプ。霧が漂う山間部に1kmほどにわたって草葺き屋根の住居が立ち並ぶ

その後、タイ中北部の平野と山間部を西へまっすぐ進み、古都スコタイや東北部(イサーン)の中心都市コーンケーンを経て、ラオス国境の町ノンカイを目指しました。

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タイの道路状況は非常に良く、快調に飛ばせる。道ばたには地域性を反映した様々な露店が並ぶ。ここでは椰子の実ジュースで一休み

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洪水や干ばつが多く、タイの中でも貧しい地域イサーンの農村。途中のスコータイは世界遺産の町

タイからラオスへの国境越え

メコン川に架かる「タイ・ラオス友好橋」でラオスの首都ビエンチャンと結ばれるノンカイの国境は、橋の両岸にそれぞれの国境ゲートがあります。まずタイ側のイミグレーションで出国(departure)の手続きを済ませ(ここではバイクでの出国もOKとのことだった)、パスポートにタイ出国のスタンプを押してもらったあと、もうひとつの出国窓口であるカスタム(custom)でバイク持ち出しの申請をしました。

しかし・・・ここでは、自分所有(登録証の名義が自分となっている)のバイクでは可能だが、レンタルバイクではタイを出国できないと、いきなり出国を拒否されてしまいました。より責任ある地位の係官と話したいと言って、入れ替わり現れる3人のオフィサーと交渉したものの、いずれも組織としてはルールに従うしかない、との回答でした。

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タイのノンカイの国境にある出入りの多い大規模な国境ゲート

またしても国境を越えられない! しかも、タイの規定でレンタルバイクでの出国はいっさい認めないというのでは、タイ以外の国へはまったく出られないではないか・・・。一瞬、絶望感がよぎりましたが、でも待てよ・・・そこは東南アジア、何か手があるはずだ、と思い返し、すでに押された「Departure」のスタンプの上に「Cancel」のスタンプを押してもらった後、130km離れたずっと小さなブンカンの国境に向かうことにしました。小さな国境であれば融通をきかせてもらえるかもしれない、と考えたからです。

ブンカンで一泊して、翌朝、国境ゲートに向かいました。ここには橋は架かっておらず、メコン越えにはフェリー(というよりトラック数台が乗れる「はしけ」)が使が使われています。案の定、小さな国境オフィスにはイミグレーションとカスタムともに1人ずつの係官がいるだけでした。事情を伝えるとイミグレーションの係官は、私の希望を聞き入れて親身になって方策を考えてくれました。そして、ラオス側がバイクでの入国を認めるのであれば、タイからの出国は認めてもいい、と言ってくれたのです。

彼は問い合わせの電話を何本かかけ、最後に話し中の電話を私に渡してくれました。事情もわからずそれに出ると、聞こえてきたのは日本語でした。あとで聞いたのですが、ラオスのダム建設に携わる日本の建設会社のハラダさんという駐在員の方で、ブンカンの対岸のラオスの町パクサンの事務所におれら、タイ、ラオスでの滞在も長くて事情にたいへんお詳しい方でした。以前から繋がりのあるタイの係官から、バイクでの日本人旅行者の受け入れをラオス側が認めるかどうか問い合わせを受けたということでした。ハラダさんがラオス側の受け入れの状況についてすぐに調べてくださり、しばらくして、「ラオスの入管は受け入れ可能」との回答を得たことを、タイの係官に伝えてくれました。

この情報を境に、タイ側は出国の書類作成に取りかかってくれ、2時間ほどはかかったものの、タイの係官(エイさん)とハラダさんのご協力によって(心より感謝です)、この国境ゲートからラオスに渡れることになったのです。ノンカイの国境で何度も言われた「レンタルバイクだから出国不可」は、ここではまったく問題になりませんでした。対岸に渡っても、ラオス側の対応は協力的で、すんなりとバイクともども入国を認められました(手続きの途中、12時に窓口が閉められ、昼休み1時間待たされたが)。

国境越えに関しても、場合によっては「法治よりも人治の要素が強い」という東南アジアの一般的特徴を踏まえる必要があるようです。これまでの「1勝2敗」の国境越えの経験から学んだこと(例えば、大きな国境より小さな国境を狙え)は、その後の国境チャレンジに大いに役立ちました。

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フェリーにバイクを載せてメコン川を渡る20分ほどのクルージング。対岸はラオス


Laos Flag
   Laos

ラオス縦断

ラオスを走り始めました。まず、通行帯が逆になり、日本と逆の右側通行に変わります。また、タイの快適な道路環境とは異なり、舗装はされていても路面が悪くてバンピー、中央分離線がほとんどない(対向車が反対車線に平気で入ってくる)、道路標示が圧倒的に少ないなど、バイク乗りにとっては厳しい条件が増えました。この国はアジアの中でも後発発展途上国で、インフラ整備は一見して遅れていますが、それでもメコン川に沿って延びる幹線道路(国道13号線)を走っている限り、比較的スムーズに走れました。

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頻繁に路上に登場する牛は最大の障害物。木材伐採が進むラオスでは運搬用のトラックも多い

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ターケークのホテルからメコン川に沈む夕陽をのぞむ。ホテルの隣の寺院では夜遅くまで仏教の催事が続いていた

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朝6時から7時頃に街に出ると僧侶の托鉢や出勤(?)風景があちこちで見られる

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この日は朝食が街角の露天のバケット・サンドイッチ(フランス植民地だったことからプランスパンは絶品)、昼食が露天売りのバナナ(隣はドリアン)、夕食はホテルでラオスのビール(BeerRao)とともに

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ラオスの農村地帯の家々。農村部でもほとんど電化はされており、テレビはパラボラアンテナで受信。新しく作ったブロックの家(右の緑の家)も見受ける

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学校からの帰宅風景。バイク通学する中高生の姿も多い
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ラオスの街道を走っていて目につくもの:建設中の近代的なガソリンスタンドと中国からの進出企業

ラオスに入ってからメコン川に沿って最南端のカンボジア国境まで750kmほど南下したところに、シーパンドーン(4000の島)と呼ばれる地域があります。この地域にはメコン川の川中に多くの島があるとともに、川に段差ができていて、そこが幅数百メートルにもわたる滝になっているのです。観光名所としても開発されつつありますが、この滝がなかなかすごい!それまで見てきたメコン川は、雨期の水を満々とたたえ、かなり大きな船でも楽々航行できるほどの川幅と水深を有し、ゆっくり悠然と流れていただけに、それがここで大きくブレイクし、茶色く激しくうねる大滝と化している姿は、見ている者に畏怖の念を抱かせるすごさがあります。ここの段差によって川と海を繋ぐ船の行き来が分断され、メコン川を海に繋がる航路として使うことができないのです。

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ラオスからカンボジア出国の挑戦

この滝を過ぎて10kmほどさらに南に行くとラオス・カンボジア国境がありました。この国境を出てカンボジアに入り、さらにカンボジアを縦断してタイにもどる周遊の旅を計画していました。しかも、カンボジアは入国に関しておおらかなはずだから、たぶん可能だろうとなんとなく(確たる根拠はないままに)考えていました。ところが、現実はそう甘くなく、またしても国境の高い壁に入国を阻まれることになったのです。

ラオス側の係官は、カンボジアが受け入れればバイクでの出国を認めるから、カンボジアのゲートまで行って聞いてこいと言います。そこで、300mほど先のゲートにあるオフィスまで歩いて行って事情を話し、バイクでの入国を希望している旨を伝えました。ラオス側のイミグレーションにいたのは、なんと2人の大学生のインターンだけで、上司はプノンペンに出張中とのことでした。

2人のうちの1人は英語が堪能でこちらの状況と申し出を理解してくれたのですが、自分たちだけでは処理できず、携帯電話でプノンペンの上司の指示を仰いでいました。ハラハラの瞬間です。そして、その結果は・・・タイのバイクでは3カ国目となるカンボジアへの入国は認められない、許可を取るためにはプノンペンの本省に事前に申請する必要がある、というものでした。

窓口の2人(写真)は両方とも好青年で、個人的には私にずいぶん同情してくれたのですが、インターンの身ですから融通を効かすだけの権限があるはずもなく、上司からの指示を繰り返すだけでした。「取り付く島がない」という状態で、交渉の余地がありそうには見えません。やむなく引き下がり、ここで出られなかったらそのあとどうしようか、と途方にくれながら、ラオス側に戻りました。

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物流はほとんどなく、閑散としたラオス最南端のカンボジア国境

ラオス側で待っていた係官たちは、ひとしきり私の説明を聞いていましたが、その後、英語が上手で外国人慣れした1人の係官が、次のようなアドバイスを耳打ちしてくれました。カンボジア側へは、外国人が車輌のままでの入国を許されるケースがたまにある。おそらく、カネを払らって特別の処置を仰いでいるのだろうから、カネを支払う用意があるなら責任者と触接話して交渉してみたらどうか、と。かつ、歩くのがたいへんだろうから、バイクで先方まで話しに行っていいよ、とも。

その言葉に押されて、もう一度カンボジアの門を叩くことにしました。今度はバイクで乗り付けると、2人のインターン君たちは、えっ、という顔でビックリです。どうしてもカンボジアに入りたいから、プノンペンの君たちのボスと電話で話をさせてくれと頼みました。そのリクエストはかなえてもらえ、彼らの携帯電話でボスと交渉することができました。ボスの話はさっきの話の繰り返しから始まりました。こちらの強い気持ちを直接伝えても、彼の主張は微動だにしません。

そこで、次の手です。特別な配慮をしてくれたら幾らかのカネを支払う用意はある、と遠回しに伝えてみました。意図は伝わったはずですが、それでも同じことを繰り返すので、よりはっきりとこちらの意志を伝えました。それに対する答えは、以外にも毅然としたものでした。「いくらカネを払ってもルールはルールだ。コラプションでルールを変えられると思わないで欲しい」。時間を割いてくれた礼を言って、電話を切るしかありませんでした。

電話でなく面と向かって直接話していたらどうなっていただろうか、2人のインターン君たちを挟んでいなかったらどうなっていたのか・・・いろいろと考えどころはありますが、とにかく、この時の展開はこのようなものでした。インターン君たちとの別れ際に、「君たちのボスはりっぱな人だね。コラプションでルールは変えられないと言っていたよ」とあえて伝えると、それを聞いた彼らの顔が、心なしか得意げな表情に変わったように見えました。

ラオス出国で一悶着

カンボジアへの国境越えをあきらめ、いったんタイへ出てから、改めて小さな国境を狙ってカンボジアへの出国に再トライする作戦を立てました。まずは、南へ150km戻ったパクセーで一泊し、そこから40kmほど西へあるラオス・タイ国境からタイに戻るのです。南部の中心都市パクセーには、外国からの直接投資がいま盛んに流入して工場やホテルなどが急ピッチで増えているようで、街は活気にあふれていました。

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パクセーの街とそこに架かる「Laos-Nippon Bridge」

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ラオスの地方道。全行程で20回ほど立ち寄ったガソリンスタンドは、地元に人々との交流の場


タイの国境に近づくと、ラオスの出国ゲート直前まで長さ1kmほどの間、露天の店が道の両脇にひしめいていました。タイから物価の安いラオスへ買い物に来るお客さんを目当てにした店々です(写真)。

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その露天通りの端に出国手続きをするイミグレーションとカスタムがあります。出国は通常、入国時に受け取った書類を出すだけであまり問題になることはないのですが、この出国時に、じつはたいへんなトラブルに見舞われてしましました。

イミグレーションの窓口で、いつものようにパスポートを出して出国のスタンプを押してもらおうとしたのですが、係官が私のパスポートを何度めくり返しても、ラオス入国時の入国スタンプがみつかりません。タイをフェリーで出国した時の出国スタンプは確かに押してあるのに、その直後に対岸で入国手続きをした時のスタンプがないのです。これでは、パスポート上はラオスに不法入国して数日間バイクで走り回っていたということになってしまいます。もちろん、これは先方のミスなのですが、とりあえずの立場としては、かなりヤバイことに。・・・

窓口から別室に移され、英語のできる30代半ばのオフィサーともう1人の係官による事情聴取が始まりました。入国スタンプなしの不法入国は、100〜500米ドルの罰金(fine)だ、とまず一撃を浴びせられました。もちろん、こちらもパクサンの入国ゲートでの入念な入国手続きを経て入ったことを説明し、スタンプ以外の書類はすべてそのゲートで作成されたものが揃っていることを示しました。つまり、そこの係官がスタンプを押し忘れたのだと。そして、「It's not my fault, but yours」と強く抗議し、それを明らかにすべくパクサンのオフィスに問い合わせて確認してくれ、と求めました。

その前に事情を詳しく聞きたいということで、入国時からその時までのルートや泊まったホテルなどを詳しく聞き出し、それをラオ語の調書に細かく記入する作業を1時間ほどかけて行ったのです。彼らの態度は概して紳士的かつ理性的で、淡々とした事情聴取だったので、一時は私も、彼らが私の立場を理解してくれ、調書作成後には無罪放免で送り出してくれるのではないかと考えて協力しました。そころが、調書を作成し終わると内容をすべて英語に訳して読み返し、さらに、このケースは規定に照らして罰金100米ドルに相当するのでそれを支払い、調書の最後にサインして拇印を押すよう促すではありませんか。

ちょっと待ってくれと、入国したオフィスへ電話で確認するよう迫ると、彼は上司の許可を得て電話してくると部屋を出て行きました。いやな予感がしました。本当に彼らが問い合わせをして真実を明らかにしようとするのか、電話したとして先方が自らの非を認めるのか・・・。しばらくして戻ってきたオフィサーは、案の定、先方に問い合わせたが、そのような人物の入国の事実は確認できないとの返答だったと言うのです。

私の話や他の書類から、先方の係官がミスを犯したとは思わないかと逆に迫りました。すると彼は、仮にミスだったとしても、パスポートのスタンプがないまま国内を旅したのは事実であり、確認しなかった責任はあなたにあるというのです。正常な手続きで手元に戻されたパスポートにスタンプが本当に押してあるかどうか、係官を疑ってチェックするなどということは普通しないだろう、といっても、もちろん受け入れられません。

万事休すという感じでした。無論、時間をかけるつもりならとことんやり合う手もあるでしょうが、日程が詰まっている中でその日の出国を前提にするなら、妥協するしかないところまで追い込まれてしまいました。無念にも、罰金の支払いに応じました。このケースで100ドルの罰金が高いかどうかは考え方次第ですが、こうして小さいながらも冤罪の被害者になったわけです。彼らの作成した綿密な調書や罰金支払いの領収書が渡されたことなどを考えると、賄賂を無理強いされたわけではないと思いますし(最終的に罰金の行方がどこかは別として)、もともと誰かが悪意をもって仕掛けたことでもないでしょう。しかし、これが現実なのです。

私のパスポートには、ラオス入国のスタンプがないまま、ラオス出国のスタンプが押されました。1時間以上私の相手をしたオフィサーは、私が罰金の支払いに同意するとほっとした表情を見せていました。彼にとっても、めったにない緊張する業務だったのかもしれません。そのあとは打ち解けて、それぞれの事や旅のことをしばし話し、最後は笑顔と握手で分かれました。


Thai Flag
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タイに戻ってきました。国境線を越えただけで、辺りの雰囲気や道路や標識ががらりと変わりました。一瞬にして、時間が20年ほど先へタイムスリップしたような、そんな感覚にとらわれました。

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タイの入国ゲート周辺。ちょっと乗せてくれとバイクに跨がる陽気なタイ税関の係官

(文・写真:金子芳樹)

旅の後半のタイからカンボジアへの国境越えとカンボジア国内の状況については、次回(Part2)に続く)

*今回の東南アジア・国境越えツーリングについては、9月29日(月)のゼミの授業時間に報告会を行います。





北朝鮮に行ってきました

今年の夏は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に行ってきました。昨年のブータン王国に続いて、ちょっと珍しい国を旅してきたので、その様子を写真を中心に簡単に紹介しておきましょう。

北朝鮮といえば、さまざまな問題をめぐって日本や世界の他の国々との間で対立を抱えており、またグローバル化の潮流にも乗らずに国際社会から孤立して独特の価値観とシステムの下に生きている国というのが一般的な認識といえましょう。そのような状況下で、北朝鮮の情報は極めて限られており、とりわけ同国内の人々の暮らしぶりについては見聞きする機会がほとんどありません。東京からでも北海道や沖縄とさほど変わらない距離にありながら、あまりにも未知の部分が多いこの国の社会を、実際にこの目で見てみたいとの思いから、思い切って旅行者として訪れてみることにしました。

この国は、外国人の自由旅行を一切認めておらず、私のように一人で行っても、2名のガイド(極めて日本語が堪能)と貸し切りのワゴン車のドライバーが常に同行します。今回は彼ら3人の現地朝鮮人とともに、7泊8日かけて、首都ピョンヤン、東海岸の元山、観光地である金剛山、38度線近くのケソンと板門店を回りました(合計1000kmの行程)。

現地のガイドとドライバーの3人と一緒に旅をするという点では昨年のブータンの旅と同じですが、北朝鮮の場合、行ける場所や写真が撮れる場所に制約があって、やや窮屈ではありました。それでも、首都ピョンヤンや観光地などでは、予想以上に写真やビデオの撮影は自由で(次第に規制は緩和されてきているようです)、かなり多くの写真と動画を撮ることができました。やはり、実際に見てみると、それまで頭で描いていたイメージとはかなり違った印象を受けた点も少なからずありました。

現地で撮った写真のごく一部ですが、以下に紹介しておきます(写真はクリックすると拡大します)。それ以外の写真や現地の様子などについては、ゼミや他の授業の中で紹介することにします。なお、写真の無断転載はご遠慮ください。

アリラン祭*アリラン祭のマスゲーム

金親子の銅像*金日成主席と金正日総書記(2011年の没後に急遽建造)の巨大銅像

地下鉄駅構内*地下鉄駅構内

平壌ビル群*ピョンヤン市中心部の最新高層住宅

市内の夜景*ライトアップされたピョンヤン市内

太陽宮殿前*主席と総書記の遺体が冷凍保存されている太陽宮殿前の庭園で

戦争博物館*独特の史観が示されている祖国解放戦争記念館

戦争博物館前のインラインスケート*戦争記念館の前でインラインスケートに興じる子供たち

遊園地*本格的なアトラクションも数多くあるピョンヤン中心部の遊園地

金剛山で記念撮影*景勝地・金剛山の九龍の滝の前で記念撮影する現地の観光客(職場の慰安旅行とのこと)

朝の通勤風景*朝の通勤風景(ピョンヤン)

農村(家と自転車)*農村の風景

農村(牛車とトウモロコシ)*農村の風景

農村(野菜と干したモロコシ)*農村の風景

トウモロコシを干す*収穫したトウモロコシを干している

農村(遠景)*農村の風景

北から見た板門店*北から見た板門店(韓国兵と北朝鮮兵の接点)

南北統一の像統一三原則を謳った南北統一の像


詳しくは授業(「外国語学部総合講座」など)でお話しします。


(文・写真:金子芳樹) 

*写真の無断転載はご遠慮ください。

























ブータン王国バイクツーリング

城と虹今年はブータン王国をバイクで走ってきました。昨年夏の韓国一周に続くバイクの旅でしたが、今年はやや趣を変え、現地でインド製のバイクを借り、現地ガイドとサポートカーを引き連れてのかなり大げさなツーリングとなりました。ということで、あまり馴染みがないブータンの情報と合わせて、その様子を紹介しておきます(写真はクリックすると拡大します)

・ブータンの観光事情

ブータン王国といえば、若い国王が結婚したての王妃を伴って2011年に来日した時に、東北大震災の被災地を慰問したり、国会で演説したり、また王妃が銀座で買い物したりするその一挙手一投足がマスコミで報じられ、日本でもにわかに有名になりました。標識とRE

私自身、外国との交流を制限する鎖国的な政策を長年にわたって採用し、その後も「GDP(国民総生産)ではなくGNH(国民総幸福量)の向上を目指す」というキャッチーな国家ビジョンを表明してきた一風変わったアジアの途上国(国際機関は最貧国の一つに位置づけている)として、いつか行ってみたい(できればバイクで)とずいぶん前から思っていました。しかし、旅行で行くには何かと敷居が高いのがブータンです。

棚田なにしろ、各国が手っ取り早い外貨獲得策としてこぞってインバウンド観光の振興を推進するなか、ブータンは外国人の自由旅行をいっさい認めず、旅行者数を制限してきたのです。いまだに政府が定額の旅行料金(1日200〜250米ドル)を設定したうえで、利用するホテル、レストランから同行するガイド(同行は必須)まで、すべて事前に指定するセットメニュー型の旅行しか認めていません。ブータン政府は、これを、伝統文化と自然環境を守りつつ、観光資源を質の高い状態で外国人に提供するためと言っています。古い村

メモリアルチョルテン実際、今回の私の感想では、この国の観光資源はきわめて豊富で、たしかに良質に保たれています。その点では政府の政策は成功しているのですが、ブータンを訪れたい外国人にとっては、ハードルがとても高いのです。日本の旅行代理店のサイトで見ると、ブータンに旅行で入国するには最低でも25万円程度が必要ですから、かなり割高で誰でも気軽に行ける国とはいえません。

隣国ネパールのように、外国人バックパッカーの巣窟となり、国土が荒らされるのを懸念している面もあるようです。その結果、ブータンの年間外国人観光客数は依然として2万人程に抑制されており、100万人近い観光客を受け入れているネパールがとは好対照です。

モンクの踊りゾン内部正面しかし、その一方で、政府は観光振興を政策の柱の一つに掲げてもいます。観光客の絶対数は少ないものの、GDPの十数%をも観光収入で稼ぎ出しているのが現実です。2011年のワンチック国王の訪日も、日本からの観光客誘致が一つの狙いであったのは間違いありません(実際に国王訪日を境に日本人観光客は倍増)。観光業についてこの国は、いわばブレーキとアクセルを同時に踏んでいるような状態といえます。このことからも、ブータンの特殊性の一端が伺えるでしょう。

・旅のセッティング肖像画2

そんなブータンなので、国内をバイクで自由に走り回れるなど、とても考えられませんでした。かといって、高額の料金を払ってセットメニューのツアーに参加する気にはなれず、個人的には「行きたくても行けない」国だったわけです。

ティンプーところが・・・たまたま「Bhutan」と「motorcycle」をキーワードにWebで検索してみたところ、ヒットするではないですか!(日本語ではヒットしません。このページが日本語では初めてのはずです) しかも、そのまんま「Motorcycle Bhutan」。それにそのページは、同国最大手の旅行会社で政府にも近い「Bhutan Tourism Cooperation Ltd.(BTCL)」(政府観光公社が1991年に民営化)のサイト内にあるではないですか。これは政府公認みたいなものです。このサイトを見た瞬間、私のなかでブータン行きのスイッチが入りました。

子どもモンク日本の代理店を通さないので、BTCLと英語のメールで直接やり取りし、旅程や様々な条件交渉をし、さらに国際送金で支払いを行わなければなりません。ただ、これらのプロセスが苦にならなかったのは、担当のMs.Damberiが、その英語のレベルの高さもさることながら、こちらの細々した要求を理解したうえで、ブータンのルールや流儀との兼ね合いなどを考慮し、じつに丁寧に対応・説明してくれたからです。ブータンは小さなアジアの最貧国ですが、一部の人たちの教育水準はかなり高いのだろうと、このとき感じました。

この国をバイクでツーリングするためには、冒頭にも書いたように、もう1台のバイクに乗るガイドが同行し、バックアップのためのサポートトラックが後に付き、その車のドライバーの他にさらにバイクのメカニックが同乗することが条件でした。私は当初、ガイドもサポートカーもいらないから、バイクだけ貸してくれと要求しましたが、もちろんそれは認められません。ルートの設定にはこちらの要求を反映してくれましたが、このサポート体制は変更できず、結局、バイク2台とピックアップトラック1台に乗る4人のチームで7泊8日のバイクツーリングに出ることになりました(料金は、バイクレンタル料1日60米ドル以外は、普通の団体旅行参加者と同じなので、じつはとてもお得)。

バイクと花畑いままでほとんど一人旅をしてきた私としては、大名行列のような大げさなセッティングは本来苦手なのですが、今回に限っては3人のブータン人といっしょに巡る1週間の旅はとても有意義で、結果的にこの体制で良かったと思っています。

・インド製バイク

ブータンの国家としてのあり方について旅の間に考えたこと(例えば、GNHと通常の途上国の経済発展とどう違うのか、ブータン人が自分たちのことを幸福だと思っているのはなぜか、ほんとにそうなのか、この国の王制と民主化との関係はどうか、など)は、追々授業などのなかで伝えていきたいと思いますが、このブログではとりあえず、バイクで走りながら見聞きしたこと、経験したことを書いておくことにします。

露天物売りバイクでの旅は、乗るバイクと走る道路の状態が重要となります。今回使ったバイクは、インド製の「ロイヤル・エンフィールド」という南アジアの国々では有名な「名車」です。みるからにクラッシックなバイクで、実際に基本設計は50年ほど前のものですが、インドでは現在でも新車として生産・販売されています。もともと旧宗主国イギリスのメーカーが製造していたものを、インド資本が買い取って作り続けているのです。500cc単気筒という、世界でも他にほとんど例を見ないエンジンを使っており、先進国でも一部にマニアがいます。機械としての絶対性能は、日本製や欧州製のバイクと比べて大人と赤ん坊ほどの違いがありますが、独特のテイストを持っているのです。6年ほど前にインドを走った時にも、2週間ほどこれに乗って、けっこう好きになったバイクです。

・ブータンの道路山麓とワインディング

もう一つの重要な要素である道路状況ですが、この点でもブータンは特徴的でした。かつてバイクで走った41カ国の中で、ロードコンディションが最悪だったのは、社会主義崩壊直後に走ったルーマニアと10年ほど前に行ったラオスですが、じつはブータンの道はそれらに並ぶレベルでした。道路は最も基本的な経済・社会インフラですから、道路の悪さはこの国の発展にとって大きな足かせになっていると感じました。

ブータンの道が悪い(舗装が行き届いていない、でこぼこのまま補修がされていない、道幅が狭い、崖崩れなどの処理が不十分で危険など)最大の理由は、この国の地形にあります。ブータンの国土は、北は世界最高峰の8000m級のヒマラヤ山脈から、南は海抜200m程度の亜熱帯地域まで、全体に南北に大きく傾いた斜面にあります。大量に降る雨やヒマラヤからの雪解け水がその斜面を流れ落ちて急流を作り、大地を削り取って南北に多くの深い谷と高い尾根を作り出しているのです。

崖崩れ主要な町はそれぞれの谷の部分にあるので(谷といってもどこも標高2000mレベルの高地)、これらの町を結ぶ道路は、谷から谷へと標高3000m以上の山を上って下るルートとなります。車がまともに走れる幹線道路は、基本的に東西方向に一本、南北に数本あるだけのいたって簡単な構造ですが、特に東西を結ぶ道路は尾根を幾つも横切る曲がりくねった急峻な山岳路となってます。このように険しい地形に道路を作るのですから、そのコンディションが悪いのも仕方ない面はあります。

露天物売り2今回走ったのは主要な町を巡る東西移動のルートなので、とにかく毎日、標高3000m以上の峠を越えるライディングでした(景色は最高です!)。町の周辺の道路は舗装もしっかりしていて問題ないのですが、山に登るに従って悪路が多くなります。8月までの雨期に大量の雨が降るため、切り立った山肌を削って作った道路はあちこちで土砂崩れを起こし、修復もままならない箇所が多々ありました。ちょっとでも道を外れたら、はるか彼方の谷底まで真っ逆さまという、日本だったら絶対に通行が許可されないようなところを何カ所も通りました。山岳地帯特有の地理と道路整備に手が回らない経済状況、それらが道路の整備を遅らせているのです。

ODAそんな山間の道を走っている時、日本の援助(ODA)で架けられた橋に3ヶ所で出会いました。それほど巨大な橋ではありませんが、頑丈そうな鉄の橋が、「日本国民よりブータン王国と日本国の友好と協力のしるしに」と記されたプレートとともに、それぞれの場所で存在感を放っていました。

それからもう一つ、まだ車が少ないこともあり、ブータンの道路には、なんと信号機が一つもありません。首都ティンプーはさすがに車の数は多いのですが、それでも中心部の最も交通量の多い交差点に信号はなく、警察官が手信号で交通整理をしていました。考えたこともありませんでしたが、日本にはいったい何本の信号機があるのでしょう。その違いが、日本とブータンの交通事情の違いを端的に表しているといってもいいでしょう。

・自然と歴史遺産頂上

この国を回ってみて、まず印象的なのは、都市部以外ではほとんど手つかずに残されている豊かでダイナミックな自然と、その中で伝統を維持しながら生活する人々の営みです。自然は、特にヒマラヤから連なる山岳地帯の山と谷が織りなす壮大な景観が見事でした。

バイクの旅は、生身の体を外界にさらしながら五感のすべてを使ってその場所を感じ取り、少なくとも移動した道の周囲の風景のすべてを(一秒も居眠りすることなく)記憶に残しながらたどる点で他の旅の手段と違います。今回はそんなバイクでの旅の効果が良く出ました。

山の村都市部から農村部を抜け、川に沿って高原地帯を通り、さらに急な坂を登って富士山の頂上に近い高さの高山帯を越えるという行程を、地方ごとに少しずつ違う個性を感じながら毎日体験できます。また、この国では標高2000〜3000mに至る高地にまで人々が住み着いて、自然のなかで農畜産業に従事しながら生活しており、そのような人々とも道すがら間近に触れ合うことができます。

トンサゾン自然の他に印象深いのは、15世紀から19世紀にかけて築かれた城(ゾン)と寺院(ラカン)、およびその中に所蔵されている仏像や壁画の数々です。主要な町に必ずあるゾンは、この国を代表する文化遺産であるばかりでなく、現在でも各地域の行政と仏教信仰の中心として生き続けています。各地のゾンのなかには、その地方の行政組織がオフィスを構え、日々の業務にあたっています。首都ティンプーのゾンには国家の行政機構が入っています。また、ゾンの半分は寺院と僧侶の宿舎となっており、幼い修行僧から高僧まで多くの僧侶が住んでいます。

ラカンまた、ゾン内の寺院やそれ以外にも多数存在する寺院の内部には、驚くほどたくさんの仏像や壁画が納められています。残念ながら寺院の中はいっさい撮影禁止のため、写真で紹介することはできませんが、それはそれは素晴らしい文化遺産の宝庫です。ブータンの仏教はチベット仏教の影響を色濃く受けており、日本の仏教遺産とは趣を異にしますが、訪れる寺院ごとに、圧倒されんばかりの仏教遺産の数々を目にすることができます。仏像

観光産業の観点から見ると、この国の自然と歴史・宗教遺産は、壁画極めて高い価値を持つ観光資源として、世界中から観光客を引きつける力を持っていると思います。ただ同時に、これらは、今を生きるブータン人にとって日常に埋め込まれた生活の場であり、また神聖な信仰の場なのです。そういった様子を目にすると、それらを観光資源として外国人に開放することを躊躇し、制限しようとするこの国の姿勢もまた理解できます。

・人々の生活3人娘

ブータン人が自ら幸福であると思っているかどうかは別として、近代化に向けた経済発展の水準を他国と横並び比べる限り、ブータンは明らかに低開発の国ということができます。公務員の平均的な所得が2〜3万円の水準だと聞きました。ただ、地方の農村部を含めて電化率はインドやネパールよりもかなり高いと見受けましたし、水も質を厳しく問わなければ抱負です。また、自動車やバイクは少ないですが、携帯電話が地方の農民の間にまで広く普及しているのには驚かされます。

旗外で目につくのは、民族衣装であるゴ(男性)とキラ(女性)を身にまとった人々の姿です。学校や職場の制服は民族衣装と定められ、またブータン人には外出時や行事などへの参加時に民族衣装の着用が求められます。私のガイドを務めてくれたタシも、ゾンや寺院を訪れる際には民族衣装に着替えてからバイクに跨がります。また、約60万人の人口の1%ほどが僧侶という敬虔なお国柄から、赤やオレンジ色の僧衣に身を包んだ僧の姿も多く目にします。

伝統文化を維持しようとする側面がある一方、2000年代からの対外開放姿勢やグローバル化の影響によって、それらが徐々に変わろうとしている様子も見受けられます。携帯電話の普及もその一例ですが、それ以外にも、建設現場や道路工事の現場で働いている労働者の多くがインド人やネパール人であることに気づきます。ブータン人自身もまだ所得水準は低いものの、さらに賃金の安い外国人労働者を近隣諸国から呼び入れているのです。もともと多民族な国ではありますが、さらに外国人労働者が増えて多民族化が進んでいるといえるでしょう。

授業風景・ブータンの英語

最後に、教育面、特に英語教育について触れておきます。最初にも述べたように、教育水準の高いブータン人は英語が得意です。私のガイドのタシもインドで大学教育を受けており、流ちょうな英語を話します。王族や貴族層のように英米で高等教育を受ける人々も一部にいるようですが、むしろ彼のように隣国インドに留学する人が多いようです。

野外授業国内の小学校でも英語教育は盛んで、アポなしでいきなり見学させてもらった地方農村部の小学校でも、かなり高度な英語の授業をしていまし。小学校でも理系の授業などは英語を授業用語に使っているようです。国語であるゾンカ語を整備しながら、同時に英語にも重きを置く姿勢がうかがえました。

ということで、書き始めたら長くなってしまいましたが、それほどにブータンが印象的な国だったということなのでしょう。未知の国への旅という意味でも、秘境でのバイク・ツーリングという意味でも、とても面白い経験でした。いずれにしても、見知らぬ外国人を快く受け入れてくれたブータンの人々に感謝です。

10月1日のゼミの授業で、このブータン視察旅行について詳しくレポートします。

(文・写真:金子芳樹)

トラック僧の後ろ姿牛たち

韓国一周バイクツーリング

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韓国ルート043夏休みの最後の週に韓国を走ってきました。時間を見つけて海外をバイクで走ることをライフワークとしていますが、韓国はその41カ国目になります。いつもは、現地でバイクを借りたり買ったりして調達しますが、今回はこれまでとはちょっと違って、自分のバイクで埼玉の自宅を出発し、それをフェリーに載せて釜山に上陸、日本のナンバーのまま韓国を一周して自宅に戻ってくるという、Door to Doorの韓国ツーリングにトライしました。

 

韓国は日本人にとって唯一、日本で使っている自動車やバイクをフェリーに積んでそのまま持ち込んで走ることができる国です。これは日韓の二カ国間協定に基づくもので、韓国からも自由に車を持ち込めます。実際にこの制度を利用して渡韓する日本人はまだほとんどいないようですが、フェリーに載せて北海道に自分の車やバイクで旅行するのと同じ感覚で外国をドライブして来れるという貴重な機会を可能にしてくれる制度といえます。ZZR

 

ferry2数年前に自動車に加えてバイクでの乗り入れが解禁されてから、チャンスを狙っていましたが、今回、夏休みの最後の週に時間がとれたので行ってきました。

 

ちょうどイギリスからフェリーに乗ってドーバー海峡を越えてフランスに渡るのに似た感じで、じつに気軽に日本列島からユーラシア大陸に上陸できます。下関港から夜8時に出港するフェリーに乗ると、明け方には釜山(プサン)港に着いています。Bukkokuji

 

今回は、釜山から日本海側を北上してからソウルに向かい、その後、まっすぐに南下して朝鮮半島南部の島々をめぐり釜山に戻るという、約2000kmのルートを1週間かけて走ってきました(マップ参照)。特に、北朝鮮とのボーダー(軍事境界線)である非武装地帯(Demilitarized ZoneDMZ)にできるだけ近くにまで接近し、同地域を実際に走って現地の様子を観察することを主たる目的の一つに据えました。以下に、その時の模様を紹介しておきます。

 

road2まずは、釜山に上陸して簡単な入国と税関の手続きを終え、北上して韓国の古都である慶州(キョンジュ)に向かいました。ここで幾つかの世界遺産を見たあと、海岸線をひたすら北上しました。日本国内を下関まで移動したときに、北陸の日本海側を走ってきたのですが、その同じ日本海(韓国では「東海」)を対岸から見ながら、漁港とビーチリゾート、そして世界最大の製鉄所などが建ち並ぶ工業地帯が交互に現れる海岸地帯を走りました。seaside1

 

submarine韓国の道路は大変良く整備されており、通行帯が反対で車が右側通行であることを除けば、日本と同じように走れます。交通標識も、全国隅々まで英語の地名表示が行き渡っており、iPhoneのグーグルマップとGPS機能をナ38-2ビ代わりに使いながら走れば、ほとんど道に迷うことはありません。

 

むしろ、道路の整備具合が良く、交通量が少ないために、日本より走りやすいかもしれません。宿泊施設はどこでも簡単にみつかり、しかも日本に比べてずっと安価なので、行き当たりばったりの旅には最適。旅の要素として重要な食べ物も豊富でおいしく、レストランでの注文がハングルができないとちょっと苦労する以外は、堪能できます。

 

DMZ1さらに北上すると北緯38度、つまり「38度線」を越えます。38度線は北朝鮮との境界線とのイメージがありますが、実際の境界線は東側が北に傾斜しているので、このあたりでは韓国領でも38度線以北に位置しています。この38度線付近には、「38度線ドライブイン」や「38度線博物館」などがあって、一種の観光資源として使われている面もあります。daibutu

 

ただし、このあたりから、少しずつ軍の警備が厳しくなり、海岸線には北側からの侵入(特に工作員)を防ぐために鉄条網が張り巡らされ、機関銃を備えた監視塔がそこかしこに設置されています。1996年に韓国侵入を図った北朝鮮の潜水艦がそれに失敗して銃撃戦となった事件がありましたが、江陵(カンヌン)には、その時の潜水艦(内部に日本製の装置が数多く使われていたことでも有名になった)が展示されている「統一公園」もありました。その後、海岸線の最北端にある「統一展望台」まで行きました。手が届きそうなところに見える北朝鮮の領土に向かって、大仏像とマリア像(?)が手を合わせている姿が印象的でした。

 military1

海岸沿いの束草(ソッチョ)に泊まり(韓国の中下級ホテルは日本のラブホテルのような外観をしているものが多いのですが、普通のホテルの場合が大半で、誰でも利用でき快適です)、次の日から2日間かけて、北朝鮮との境界線であるDMZギリギリのところを走ることにトライしました。DMZ2

 

何度も軍の検問で止められてUターンを命じられながらDMZまで数km付近の山間部を走ったのですが(もちろん軍の指示に従って合法的にです)、この地帯はソウル以南では想像できないくらいに軍事色が強く、行き交う車のほとんどが軍事車輌で、いたるところに陸軍の駐屯地が展開しています。mineDMZ5

 

周辺の山間ではひっきりなしに機関銃や大砲の(演習の)音が鳴り響き、道路のすぐ脇で戦車をはじめとする軍事車輌が実弾を発射しながら演習をしている光景にも出会いました。間近での大砲の発射音には思わず身がすくみます。また、何百という大砲が北に向かって睨みをきかせていました。首都から数十kmしか離れていないにもかかわらず、この地帯は戦時下を思わせる雰囲気で、ソウルのきらびやかな喧噪とはまさに好対照です。DMZ4

 

DMZ3DMZから離れてソウルに向かい、ソウルに泊って翌日市内を半日巡ったあと、朝鮮半島中心部の穀倉地帯をひた走り、時たま現れる山岳地帯ではバイクが喜ぶワインディングロードを求めて山道を走りながら、南を目指しました。ソウルから南に延びる国道1号線には、一部に中央分離帯を取り払うと滑走路として使えるよう設計された部分もありました。

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market韓国南部の海岸線は、多くの島々と半島が入り組み、複雑で変化に富んだ地形を形作っています。この地域は国立公園や海岸リゾートが点在する観光スポットであるとともに、漁港が連なる韓国でも有数の漁場としても有名で(戦国時代に豊臣秀吉の軍勢が攻め込んだ地域でもあります)、私自身もそのイメージを抱いて訪れたのですが、実際に行ってみるともうひとつ驚くべき光景が展開していました。

 

dockyard1韓国はいま中国との間で造船世界一を争っているのですが(2010年は韓国が世界一)、まさにその造船基地がこの地域にあったのです。入り江ごとに漁村と巨大な造船ドックが交互に現れ、数十万トン級とも思われる大型タンカーや貨物船が数多く建造されていました。釜山の東西に広がる沿岸地域は、韓国の高度経済発展を支える一大工業地帯でもあったのです。


その後、釜山に戻り、予定どおりフェリーで翌朝に帰国しました。パスポートチェックと税関の簡単な手続きを終え、下関から高速道路に乗って約1000km走り、その日の夜に自宅に戻りました。そして、1日休んでその次の日から九十九里でのゼミ合宿に参加したというわけです。

 

Door to Doorで韓国を回り、日韓の連続性とその近さを体感してみたいという思いから始まったツーリングの企画ですが、両国の類似性と異質性をそれぞれ感じることができました。「近くて遠い」「遠くて近い」、どちらも当たっているように思える両国です。いずれにしても、言葉もできない外国人を温かく受け入れ、手助けしてくれた韓国の人たちに、感謝です。

 

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今日(
103日)のゼミの授業で、この韓国視察旅行については詳しくレポートします。(金子芳樹)

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ベトナムの「鳥の巣」電線

ベトナムバイク1シンガポールへ行く途中、トランジットでベトナムのホーチミン市に立ち寄りました(つまりベトナム航空を使ったということ)。1泊1日過ごした印象では、全体としては2年前に訪れた時とさほど変わっているようには見えませんでした。

 

ベトナムおばちゃん道路を埋め尽くす小型バイクの流れは相変わらずで、成長するこの都市の隅々に養分を行き渡らせる血液のように、途切れなく活発にうごめいていました(20098月のブログ「ベトナムのバイク」でも触れました)。ベトナム高層ビル

 

今回、目についた変化は、以前はほとんど見かけなかった近代的な高層ビルが古い町並みをかき分けるように何本かそびえ立っていたこと、そして、街角のところどころに黒い巨大な「鳥の巣」ができていたことです。高層ビルがまたたくまに増えていくのは途上国の都市では珍しいことではありませんが、「鳥の巣」が増殖していくのを見たのは初めてでした。


 それらの「鳥の巣」の正体は、写真の通り、電線の束でした。電線とわかれば、なぜそうなったのかは容易に想像がつきます。急速な経済発展に、安全で安定的なインフラの整備が追いつかず、危険を承知で(二の次で)、拡大する電力需要にとりあえず対応している姿です。おそらく、これは高度経済成長がもたらす弊害のほんの一つの事例に過ぎないのでしょうが、いろいろと考えさせられる光景でした。

鳥の巣2
鳥の巣1

(金子芳樹)

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